チャットをやっていると、時々「こいつのセンスには敵わない」と唸らされるような、思いも寄らぬ発言をしてくる者がいる。たった一行の文章の中に凝縮された職人の業。
ポケネ第二・第三世代を代表するチャット職人J.K.サクリファイス(フィーカス)もまた、そんな俺を唸らせた一人だった。
ある時、従来のポケネのdatファイルであるchat.datを皆が読めてしまって、電報も丸見えで意味が無いというのが問題にされた事があった。
そこでファイル名を変えようという話を、管理人のKOUも交えて相談していた。何に変えようか、kousamasuteki.datがいい、であるとか、そんな話をしていたわけである。そこでフィーカスも新ファイル名を提案した。
フィーカス案
kousamatoissho.bed
拡張子の方を変えるの!?
この時、俺はフィーカスに対して敗北感を覚えた。駄目だ、俺にはとてもこんな発言は思いつかない。
チャット職人としては、俺は一生フィーカスに追いつく事はできないということを悟った。
間違いない。フィーカスは天才だ。
さて、フィーカスといえば代表作ポケネバトルロワイヤルや、一連のクサセリフなどから、その文才を称えられることが多いのだが、俺は、彼の評価されるべき点は文章そのものの才では無いと思っている。
フィーカスの才能とは、何よりもその着想力である。ポケネ住人をキャラクターに仕立てる小説を思いつく着想力。ポケネでの次の流行をいち早く感じ取る嗅覚。
フィーカスの才とは、そういうものなのではないだろうか。着想さえ良ければ、その後に書いた文章の良し悪しは、実はあまり問題ではない。
そしてバトロワなどに代表される、ポケネを題材にした作品群から感じられるものはポケネに対する愛情の深さである。これは、俺が今現在こうやってポケネに関するコラムを書いているのと出発点を同じくするもので、それがフィーカスの場合は創作系へと向かって行った結果だと考えている。
俺が昔、フィーカスがポケネに入室するたびに挨拶代わりに「ツルリ>サクリ」と発言していたのだが、それはツルリと服を脱がしているという意味だった。
俺の脳内設定では、俺がそう発言するたびにフィーカスは全裸でチャットをやっているということになっていたのだが、今にして思えば、これも本当にどうでもいい話ではある。
ポケネ第二・第三世代を代表するチャット職人J.K.サクリファイス(フィーカス)もまた、そんな俺を唸らせた一人だった。
ある時、従来のポケネのdatファイルであるchat.datを皆が読めてしまって、電報も丸見えで意味が無いというのが問題にされた事があった。
そこでファイル名を変えようという話を、管理人のKOUも交えて相談していた。何に変えようか、kousamasuteki.datがいい、であるとか、そんな話をしていたわけである。そこでフィーカスも新ファイル名を提案した。
フィーカス案
kousamatoissho.bed
拡張子の方を変えるの!?
この時、俺はフィーカスに対して敗北感を覚えた。駄目だ、俺にはとてもこんな発言は思いつかない。
チャット職人としては、俺は一生フィーカスに追いつく事はできないということを悟った。
間違いない。フィーカスは天才だ。
さて、フィーカスといえば代表作ポケネバトルロワイヤルや、一連のクサセリフなどから、その文才を称えられることが多いのだが、俺は、彼の評価されるべき点は文章そのものの才では無いと思っている。
フィーカスの才能とは、何よりもその着想力である。ポケネ住人をキャラクターに仕立てる小説を思いつく着想力。ポケネでの次の流行をいち早く感じ取る嗅覚。
フィーカスの才とは、そういうものなのではないだろうか。着想さえ良ければ、その後に書いた文章の良し悪しは、実はあまり問題ではない。
そしてバトロワなどに代表される、ポケネを題材にした作品群から感じられるものはポケネに対する愛情の深さである。これは、俺が今現在こうやってポケネに関するコラムを書いているのと出発点を同じくするもので、それがフィーカスの場合は創作系へと向かって行った結果だと考えている。
俺が昔、フィーカスがポケネに入室するたびに挨拶代わりに「ツルリ>サクリ」と発言していたのだが、それはツルリと服を脱がしているという意味だった。
俺の脳内設定では、俺がそう発言するたびにフィーカスは全裸でチャットをやっているということになっていたのだが、今にして思えば、これも本当にどうでもいい話ではある。
以前告知したオフ企画が、何と草野球オフというとんでもない方向に動き出しています。そんなことできるのか? まず俺からして本格的な野球は一回もやった事無いんだけど。
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